最近、同窓会ネタが多く、よくない傾向だとは思っているが、今日は書かないわけには行くまい。
母校の高校の文化祭で行われる「リーダー祭」を見に行った。リーダー祭とは、応援団が校歌や応援歌など数あるレパートリーを披露する (演舞する) 催しで、体育館のステージで行われる。いつもは人の応援をするのが仕事である応援団が、自分達が主役となる日である。
見ごたえのあるステージで感激した。観客も大入り。応援団員の努力に心より拍手を送りたい。
感激にはわけがある。
実は、僕の同級生で第24代応援団長の I 君が現役の応援団の学生さん達の指導をしていると聞き、先々月、運動公園に野球の試合を見に出かけた。野球の試合というより、応援団の様子を見に行ったのだ。
卒業後もしばしば球場を訪れ、後輩達の応援する姿を見るのを楽しみにしていたが、10年ぶりに見る現役学生の応援スタイルは様変わりしていた。流行歌のようなものを取り入れていて、掃いて捨てるほどあるどこかよその学校のような曲がときおり挿入されていた。伝統的な応援歌だけで貫くスタイルが最高にかっこいいと思っていたが、最近の学生さんはメンタリティーが違うらしい。
応援団のリーダーシップもあまり芳しくなく、学生の統率がとれていない。どうも僕らが I 団長らに持っていた敬意のようなものが、今はないらしい。
そして、何よりも驚いたのは、応援歌の節回しがめちゃくちゃだったことだ。なんの曲を歌っているのかわからないような状態だった。他校出身の女房でさえ「歌がおかしい」と言い出す始末。
こんな実態を憂いた I 君らは、ここ数ヶ月OB会活動を活発化させ、三年に一度のリーダー祭を成功させるために、現役応援団への指導を続けていた。
そして今日の晴れ舞台。先輩達の熱意は現役応援団にも伝わったようだ。よくここまで持ち直したなと思うほど、堂々としたリーダーぶり。曲もきちんと正調で歌えているではないか。ほっとした。伝統は守られたようだ。
現役とのあいだで (あるいはPTAも含めて)、応援スタイルを巡る意見のギャップはあったようだ。OBも一方的な価値観を押し付けるわけにもいかず苦労したらしい。それを乗り越えての今日のリーダー祭。感激も大きかった。
伝統がなんだ、といわれる向きもあろうが、一度なくしたものは元にもどらない。なくしてしまうときは、それを受け継いできた人間にも発言の権利を与えなくてはなるまい。これを「死者の民主主義」という。
『現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない。伝統はこれに屈服することを許さない。(中略)われわれは死者を会議に招かねばならない。古代のギリシア人は石で投票したというが、死者には墓石で投票して貰わなければならない』(チェスタトン『正統とは何か』)
好き嫌いは別にして、応援団員があれだけの気迫で演舞を行えば、伝統を守ることの価値も理解してもらえるのではないか。惜しむらくは、もう少し現役の学生さん達にあの姿を見てもらいたかったことだ。
何世代もの人間が一緒に校歌や応援歌を歌えるということを守ってくれた、応援団とOBのみなさんに感謝する。
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▲21世紀、平成の御世にこの姿! シビレる!
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